学童保育との悪戦苦闘日記


かつての自分がした「あそび」をもう一度。。。


いま、深夜1時過ぎ。のどが渇いて目覚めて、冷たいお茶を一杯。そうそう、もう昨日のことになったが、昨日はとても暑かったので外遊び中止で「内遊び」になったのだが、いつものように子供たちは、様々な遊びを展開していく。そんな中、私は、ふと思った。「そうだ、リリアンってやつ、昔、小学校時代に遊んだなあ。結構簡単でハマったなあ。今、子供たちとやって見たらどうかな??」と。先ずは、手元にあった「荷造りひも」で試しに自分でやってみた。んーっ?できない。やり方を忘れていた。「あっ、そうだ。YouTubeでやり方のってないかなあーー。」という感じで、「リリアン ゆび編み」で検索してみると、沢山あるではないかあ。かつて自分がやったものは。。。と探してみると、「親指と中指で持ってやるやつは。。。あっ。あったあーーー。」。ということで、YouTubeみながら、試作品を編んでみる。指がつりそうになること何回かあったが、あれこれとトライしてみて、何とか形になった。「そうそう、あやとりひもの為に買って置いた「毛糸」があったなあ。。。リリアン糸でないけど、カラフルでいいかもしれない。。。」と思い、「毛糸」でも試作品を作ってみる。「ちょっと滑りにくくて作業しづらいけど、太めだから、低学年には、かえって作業しやすいかも。。。」と思った。さて、早速、デスク越しに、みんなに声かけしてみた。「ちょっと、皆いいかなあ、聞いてくれる??。。。昔よく遊んだ「あそび」をみんなに紹介したいんだ。「リリアン指編み」ってやつでね、「ストラップ」ができるんだけど、やってみたい人いるかなあ??」。しかし、教室内は「しーーーーーん。。。???。」。とくに返事がない。「そっかあ。オッケー。もし興味があって、作りたい人は声かけてねえ。。。」とアドバイス。間もなくして、低学年の仲良しの男の子2人がやってきて「作ってみたい!!教えてぇーー!!」ときた。「オッケー。」。早速、5種類の毛糸の束から、各自好きな色の毛糸をチョイスしてもらう。丁寧な説明をして一緒に作っていくが、なかなか「持ち方」のコツが掴めずに子供たちは悪戦苦闘していた。何回もほどけながらも、一人の子は、なんとか最後まで仕上がった。もう一人の子は、頑張ってみるものの、途中で諦めてしまった。仕上がった子は、満足そうにみんなに見せに行くと、数人の女の子たちが興味を示して「私作ってみたーーーい!!」とやって来た。その子たちにも丁寧に説明で対応した。また、上手く最後までできた人は、友達同士で教え合いをして頑張って取り組んでいる姿もあった。やはり、指の使い方に苦労している子が多かったが、皆さんよく取り組んでいた。中には「これ楽しーーーぃ。。。」と、5,6本日のストラップを作っていたりもした。結局、10人弱が取り組んでくれたようで、良かった。良かった。この後みんなに「本番用に「リリアン」をアマゾンで注文したからねぇ。。。届いたら、それで作りたい人はまたやってみてねぇ。。。」と伝えた。今度は他の昔遊びを伝えていけたらと考えている。ではでは。

2024-09-11 02:05:29

パーツがないからダメ?


本日は、残暑厳しく、気温も高く、外遊びは見送った。ということで、本日は「内遊び」になった。ここ最近は、男の子たちは元気に「ただいまあー!」と帰ってくると、一目散に「カッコいいパーツが豊富なレゴブロック」に向かって遊ぶことが多い。今日に限ったことではないが、ある男の子が「○○くんが、貸してくれないっ!!」と嘆いていた。そこにいたお友達が私に報告してくれた感じだ。私は次のようにアドバイスをした。「△△くん?何を貸してくれないの?」と言ったら「これ!」と言いながら、誰かが作ったレゴのゴーカートの作品を指している。「そっかあ。でもさあ、他にもブロックいっぱいあるじゃん?それ使って、似たようなもの作ればいいんじゃないの?」と私は言った。そうしたら、「このパーツがないと作れないんだもん!」と返してくる。「ん???そうなんだあ。でもね、そのパーツを自分で作ちゃえばいいんじゃないの???ブロック遊びってさあ、パーツ自身も作れるんだよっ!そりゃあ、同じものではないけどね!。というより、あのやつより良いもの、というか、他にはない特別なパーツが作れたりするよ!どうしても使えないパーツだとか、ここにはないパーツは作っちゃえばいいじゃん??そう思わない???それこそ、スペシャルじゃん!!」とアドバイスした。その後、その子はしばらく経って、何事もなかったようにレゴブロック遊びに夢中になっていた。最近の子供たちは、あまりにも、完成されたものでしか興味を示さないように感じることが多い。また、「別の発想」が出来ない、もしくはそれが苦手なお子さんが多いように感じる。今の時代、モノがあまりにも精密で、高機能で、「完璧すぎる」くらいのものに囲まれて私たちは生活している。壊れたら、「買えばいい」。「作る」くらいなら、「買えばいい」という感じで。。。これに対して、私は「ん???」とよく考えてしまう。確かに、昔だったら、分解したり直したりできるものがそこら中いっぱいあって、すぐ買うと言う発想ではなく、「直したり、改良したりする」と言うことをしたものだと思う。そのようにして日本は伸びてきた。「メイドインジャパン」の誇り。。。それでこそ「モノを大事にする」いう教育は実るのだが。。。今はなかなか難しい時代だ。でも、そうだとしても「モノづくりの精神」はなくしてはならないと言う「教育」は忘れてはならないと思う。いま、盛んに言われて耳にすることが多い「STEM教育」。「科学的教育」。これは文系・理系と分けて考えることではなくて、「総合的な眼・総合的な力を育てること」であるが、「物事のしくみを理解し、応用する力」が、いま、求められて久しい。「今ないものは、想像力と創造力で生み出してこそ!」と言う「教育」を実践していかねばならないだろうと。でなければ、日本は廃る。少なくとも私は、この学童所でこのことを子供たちに呼びかけ続け、そして子供たちと取り組み、この「志」を伝えていきたい。ここでも『ブラックボックス』という未来、玉手箱があるのではないか、と。。。

2024-09-10 21:53:42

塾講師時代の貴重なお子さん達との出逢いと「人生観」


前記事の中で、主として「塾講師」としての経験が長くありましたことを伝えてきました。ある意味、限定的な職種になるわけですが、その中で、上司などの申し出によって【一期一会】ともいえる貴重なお子さん達との出逢いがいくつかありました。今となっては「差別・偏見のない眼」を持つように自然と身に付いた経験でした。まず、1浪時代の「寺子屋式学習塾」でのアルバイト期間に、オーナの計らいで、「佐藤くんに是非お願いしたい生徒さんがいるんだよね。学習障害というか知的障害を持つ小学校5年生の男の子なんだけどね。お願いしてもいいかな?」と。早速案内されて、部屋に入ると、そこに男の子とその親御さんである母親が座って待っていらしゃいました。塾長による説明の後、塾長と親御さんいる前で私の個別指導を始めました。今でも鮮明に覚えていますが、小学校1年生の国語教科書(上)のお子様による音読練習でした。「あか、あお、きいろ、あおいそら。。。」という始まりで、たどたどしいですが、それでいて力強く音読してくれました。塾長の説明によると、そのお子様は「小学校5年生ですが、国語については、学力的には小学校1年生ぐらいです」ということでした。私も声を出しながら、一緒に寄り添いながら、1字1字丁寧にハーモニーを奏でるように一緒に読むトレーニングを毎回毎回繰り返していきました。もちろん、私はそれが初めての経験でした。衝撃的でしたが、私の「真摯な対応姿勢」の原点となりました。そのお子さんは、一方、算数については「計算スピード」が早く理解力がありました。「国語」「算数」をうまく組み合わせて指導に当たりました。そのお子様には、別曜日に「中央大学法学部大学院生の女性講師」が指導に当たっていたようです。塾長さんに「佐藤くんにしか出来ないこともあると思ったので、お願いしました」と言われたことを記憶しています。一方、その塾で、いわゆる「多動的」お子様も受け持ちました。授業にならないくらい元気なお子様で、教室を飛び出すお子様でした。大変でしたが、良い経験でした。時が経ち、私の大学生時代の予備校バイトで、「高校1年生の数学」集団授業を受け持った時に、上司にお願いされて教えた「朝鮮学校に通っている女子生徒さん」。担当教員から伝えられていたのは「ちょっと悩みを持ってるお子さんでね。通学時に「チマ・チョゴリ」を着て通っているんだけど、最近、電車の中で衣装に「白いもの(精液)」をかけられたようで、ショックが大きいみたいなんだよ。佐藤くん、ちょっと、相談に乗ってあげて。」と言われた。もう時間が経ちすぎていて、どんな言葉をかけてあげられたか覚えていませんが、これも私には全くの初めての経験でした。担当教員がなぜ「わたし」にお願いしたのかの詳細は聞かなかったので、「なぜ私が?」と思いましたが。この経験によって、「先験的な偏見差別」ではなく、「国を超えた人としての向き合い方」を少しでも学ばせてもらったと考えていて、大変貴重な経験をさせてもらいました。しかも、「性的被害」という現代でも深刻な問題との対応にも。私はどちらかと言うと「ピュアな人」の部類に入るのかもしれません。世間では「ピュア=『ちょっとおバカ』」みたいな見方をされることが多いと思います。でも、私は、むしろその方が余計な情報抜きで『物事の本質がみえる』のではないか、という考えの持ち主です。以前は「知識詰め込み教育」時代、特に「昭和時代」の教育は「知識偏重・学力平等化」であった時代。「知らなければ、イコール、バカ。」みたいな感じで。知識は特に、人によって「得手不得手」が顕著になってくる分野だと思います。覚えられないと「落ちこぼれ」になって、世の中のおいて行かれる。時代の変化に「早く乗ることが良い事」とされる。どちらかと言うと、私は暗記が苦手なタイプ。暗算も苦手。頭の中に「繰り上がりを一時的に置いておく」ことが出来ない。すぐ頭の中のイメージから消えてしまい、「あれ?なんの数字だったけ???」という感じで。「計算ミス・ケアレスミス」もしょっちゅう。どちらかと言うと、私は「じっくりと時間かけて思考を楽しむ」タイプ。簡単に言えば、私は、「暗記派」より「思考派」。なので、「暗記で済むものは、別に覚えなくていいじゃん。思考によって、導き出すことができれば、それでいいじゃん」と考えてしまう。この考え方は、私は「大学受験物理」を勉強して得たと言っていいかもしれない。受験勉強では「物理・化学」を勉強しましたが、最初「化学」が伸びて、「物理」は0点ばかりでした。でも、受験科目になっているし、なんとかしなきゃと思って、1浪時代に高校で使っていた普通の教科書を使って、「定義は何?束縛条件は何?そして、すべてはどのようにして導くことができる???」という自問自答を繰り返しながら、教科書の全範囲の「導出過程の導出トレーニング」を徹底的に行って教科書を何周もしました。真白な紙に、紙と鉛筆のみで、全ての因果関係を説明できるようになるまで。その期間は時間はかかり根気がいりましたが、よく言われるように、「ある時突然ばあーっと視界が開ける瞬間」がありました。その感じで、数学科目も「定義は?条件は?仮定と結論は?」と自問自答していきました。そして、浪人時代が長かったので、数学・物理については「自分で創作問題を作って、それに解答を付けていく」ということもやっていたりしました。受かるだけなら、そんなことせずに、「もっと効率的な方法」があると思うのですが。でも、私には、これが一番合っていたようです。「試行錯誤の人生」を楽しめたら、それで良いのではないか、と。時代に乗り遅れたとしても、自分の足で歩く余力が残っている限り、「生きよう」とする意思が「もうダメだ」という意思より、ちょっとでも勝れば、苦くて辛い停滞時期も時が経てば「大したことのない時間だった」と思えると。私の人生、人からみれば、まったくの「無駄な時間が長すぎ」て「バカな奴」と考える人が多いでしょう。人生の価値は、自身が決めるもの。他の人の評価で、人生がそれで終わるのではない。最後の最後は、「生きよう」という自身の声です。でも、世の中、「人を潰す。人を殺す」人もいたりする。そして、可能性の限り「生きることを考えても」、それでも、いつか必ず一人ひとりに「死」は訪れる。そんなときは、それこそ「運命」と言うべきなのでしょう。「運命」とは、「最後のブラックボックス」。。。

【2024-09-07 16:20:54】

2024-09-09 01:12:27

15才の挫折の地で、人生カムバック ~自分の様(ざま)を見る~


現在55歳。あれから40年、時(とき)が経過した。初めて経験した挫折の「追浜高校受験失敗」。その当時、その高校は横須賀市内の公立トップ2番手高校。中学1年から少しずつ伸びていった成績であったが、受験時の内申点はギリギリでの挑戦だった。受験慣れしていなかったのと、緊張しすぎで、入試一時限目の「国語」試験の初めの「現代文」の【最初の3行が全く読めない】。十数回もその3行を行ったり来たり。もうその先のその日のことは、全く覚えていない。どうやって帰ってきたかも記憶にない。当然、「落ちた」。同じ中学で10数人ぐらい受験したと思うが、私1人だけ不合格。不合格を担任に知らせた中学校からの自宅への帰り道、泣きながら走って帰ったのは今でも記憶に刻まれている。それが、私の挫折人生、堕落の始まり。まあ、今思えば、単に「実力がなかった」だけと思える。私立高校行かせる余裕がないということで、父が必死になって情報を集め、たまたまあった「公立高校2次募集」の「県立津久井浜高校」受験をすることになる。死に物狂いで2週間5科目万遍なく勉強して、なんとか「合格」できた。入学式後に高校1年時の担任の先生から「一応なんだけど、トップ合格になる」と伝えられた。ただ、またそこから挫折・堕落が始まる。高校入学時に言われた父からの言葉「大学受験で見返してやれ!」に奮起して、高校入学から、Z会と「大学への数学」に没頭するが、クラスメートの雰囲気とのギャップに悩み、「自分のやっていることが馬鹿らしくなって」、高校1年の夏ごろ、結果的に「高校デビュー」という感じで、パーマをかけた。慣れていないので、初めのころは「パンチパーマ」みたいになってしまった。その後「サイドバック」スタイルパーマに。高校1年冬ごろから、全く勉強しなくなり堕落していった。高校2年生の春ごろ、学校をサボり、適当に海岸などをぶらぶらしていた。でも、不良になり切れない、勇気が出せない中途半端な不良だった。そんな夏のある日、母親に学校行ってないのをバレて、家族会議になるが、「高校退学して、高卒認定試験を受けたい」と両親に言ってみるが、母親に何度も説得されて、踏みとどまる。高校に行き続けたが、ある日の体育の時間に授業に出ず、教室で一人寝たふりをしていた。クラスメートの声が聞こえてきて「佐藤くん、自殺しちゃうんじゃないの?」と心配された声。そんな時もあった。何だかんだ、時は流れ、なんとか高校3年生になった。相変わらず「勉強してなかった」ので、成績は学年の中でビリの方だった。ある日、担任の「国語」の先生に「反抗して」、定期テストで「白紙答案」で提出したら、後日、職員室に呼び出されて、「佐藤くん、これでは赤点です。成績2以上はつけられません。どうしちゃったの?」と。結果的には、成績は「2」が付いていた。心の中で「なぜ1を付けないんだ!」と思った。あの当時、「学校の国語の試験って、先生の説明したことがでて、それを暗記するだけじゃないの?そんなの馬鹿らしい。」などと考えていた。今考えれば「現実逃避!自分をごまかしているだけ。実力ないのをごまかしているだけ!」と今の自分には自分自身に言える。単に「逃げていた」。学校サボっていたりしたので、最後は、卒業に必要な「出席日数がギリギリ」であったが、なんとか高校卒業した。ちなみに、勉強してないのにバカだが、現役時に「早稲田大学理工学部1本受験」で、見事に撃沈。いわゆる、バカな「見栄だけの記念受験」だった。1浪目の春、初めて「バイト」を始めた。徒歩25分くらいの位置のファミレス「スカイラーク」で、22時~深夜2時までの4時間勤務の「キッチン・調理」のバイト。でも、最初は「お皿洗い」ばかりで、しかも、素手だったので、「手が赤くはれて」、「やってられない」と思い、バイト雑誌で他を探し、たまたま「寺子屋式 塾講師アルバイト」募集を見つけたので、即電話して面接。ここで、今だから言えるが履歴書偽証をしていた。どうしても「受験費用を稼ぎたかった」ので、少しでも有利になるよう横須賀のトップ校の「県立横須賀高校卒業」と履歴書に書いてしまった。結果的に「採用」され、翌日から小学生担当の個別指導講師アルバイトが始まった。もちろん、面接だけでなく、筆記試験はあったと思うが。数日後、講師室で、なんと「本物の県立横須賀高校卒のアルバイト女性」に出逢った。「塾長に聞いたけど、佐藤くん、私と同じ高校なんだね。いつ卒業?」と聞かれ、「今年!」と言ったら、「私も!」。「でも、そんな人いたっけ?」と問い詰められた。なんとかごまかしたが。今考えれば、「よくもまあバカなことやったもんだ」と自分自身で冷笑する。その時以来、その子と会話するようになるが、その子も1浪で、来年、「国立千葉大学園芸学部」受験目指していると聞いた。「あなたは?」と聞かれたので、「東京工業大学第7類を目指している」と伝えた。今思えば、今も変わらず、一番行きたかったところだ。この時から始まっていた「本業そっちのけバカまっしぐら」の「塾講師アルバイト」。「教えることが好き、というか、楽しかった」のだが、今思えば、「自分のすべき本分を忘れたバカ」だった。1年後、私は見事に撃沈。あの子は、新聞の大学合格者名に名前が載っていた。第一志望「千葉大園芸」に。その後、私は2浪突入。相変わらず、塾・予備校に行きたくなかったので「宅浪」続行。また、塾講師続行。1年後。見事に撃沈。3浪突入。もう後がない、といい加減思い、塾講師を辞め、一切バイトをせずに「必死に勉強」。途中、駿台・代ゼミの「東大模試」も受けてみたが、当然の如く、点数は取れない。「早大模試」も受けたが、手応えなし。センター試験の「国語」で200点満点中85点くらいだったので、1次:2次=1:1であったので、絶対的不利と自分で判断して、意地で受験目指していた「東工大」を諦め、2次1発逆転が狙えそうな大学を模擬試験受験後に貰える資料を自分で分析して、合格可能性を割り出し、もしかしたらいけるかもしれない「横浜市立大学文理学部理科生物課程」の受験に急遽変更。直前時には、「英語」それなりに、「数学」分野に依って得手不得手があったが、多分いける、「物理」はしり上がりに伸び偏差値63程度出ていたので一番自信あった。受験前夜、緊張から一睡もせず。逆に集中力で乗り切った感じ。1限目の英語は平均並にとれたが、2限目の数学で上手く解けなかった。落ちたと思いつつ、3限目の得意としていた「物理」で数学の失敗を取り戻そうと思い直す。物理は見直す時間もできて、もしかしたら受かることができるかも、と思った。合格発表日、大学の掲示板に「自分の番号はなかった」。無理でも受かったふりをして、自宅まで帰ってきた強がりを今でも想い出す。それ以外に合格したのは、たった2校の「神奈川大学工学部応用化学科」と「東海大学理学部物理学科」のみ。東工大目指していたのにあまりにも力不足。他受験校は、「早稲田大学理工学部物理学科」「早稲田大学教育学部物理科」「東京理科大学」「中央大学」で、これら全て撃沈。受験後間もなく、「東海大学」に入学手続きをして、「集団授業」の塾講師をやってみたかったので、即面接して、即採用され、大学入学式まで塾講師三昧だった。そんなある日、父から塾に電話が入り「横浜市立大学に補欠合格したみたいだけど、どうする?」と言われ、二つ返事で「今から横浜市立大学に行って自分で手続きしてくる!」と大学へ即移動。事務室にに入ると、同じ学部課程にもう一人いた。入学式後にバッタリ遭遇し、「俺、実は補欠合格なんだ」と打ち明けられ、「俺もだよ」という感じで大学生活がスタートした。そいつは、現役合格。私は3浪合格。大学生活始まるも、相変わらず、私は「塾講師のアルバイト」ばかりで、「学業そっちのけ」。1991年の大学1年の夏の暑いある日、セミが大発生したと思われる時期に、私はあることがきっかけで「覚醒」した。「女性のささやき声」として、「幻聴」が聞こえ始めた。そこから私の「病(やまい)」が始まった。色々な不可解な出来事が身の回りで起こりはじめるが、その時は1か月足らずで、「幻聴は消え」て、大学生活も9月から送っていた。しかしながら、エネルギーを消耗したのか、やる気は失せ、大学に行かなくなった。それでも、塾講師のアルバイトだけは普通に続けていた。浪人時代に長渕剛主演の「家族ゲーム」で長渕剛が演じる家庭教師役の「大学8年生」という響きに憧れてしまったので、大学1年生の時からクラスメートに「俺は大学8年生をやりたい」と公言していた。まったくのバカである。バカまっしぐらであった。結局、希望通り「大学8年生」を成し遂げた。まったくの「救いようのないバカ」であった。大学7年生ぐらいになると、後輩からは「生きた化石だ」とも言われたりした。まあ、その時は、あまり気にしていなかった。自分が望んでやっているのだから。最後の年、1999年2月の後期試験が終わった最後の冬。掲示板に学番で、「至急、事務室に!」という呼び出しがあった。行ってみると、「このままでは卒業単位数が足りません。英語の単位が落とされています。あと、実験レポートが一部未提出です。至急、理学部長のもとに行ってください。」と言われる。行ってみたが、理学部長に全く相手にされなかった。「自分が悪い。何と言われようと知らん。」と怖い表情で一喝された。私は馬鹿でもともと、恥も外聞もなしに教授の「研究室」の前に3時間ほど立ちっぱなしで粘った。色々と説教されたが、問題の英語科教授にコンタクトをして頂いて、「リスニングテスト」の再試をして下さった。なんとか足りないレポートと再試を行って、卒業に至ることができた。人には言えない情けない卒業である。ここまでしても卒業したのは、塾講師のアルバイト時代の「国語科」のある講師の「僕はね。母親に「どんなことがあっても『教員免許』取っておくんだよ、と言われたんだ。だから頑張ってそれを取って卒業した。だからね、佐藤くん、人生色々とあるけど、折角入ったんだから、どんなことをしてでも、大学は卒業するんだよ。いいか、頑張ってな、佐藤くん。」という、その言葉が頭に残っていたからだ。今でも、私には「恩師」である。そこの予備校バイトで、もう一人の恩師がいる。横浜市立大学医学部学生だった「数学科・理科」担当の講師。予備校の古くなった事務パソコンをその人の助言で頂いた。「佐藤くん。これはブラックボックスだ。佐藤くん、その中に君のほしいものがあるかもしれない。またないかもしれない。まずは、パソコンの中身をよく見て探してごらん。」とアドバイスされた。その数日後、パソコンの中に何かを見つけた。「VZエディター」というソフトだった。それが私のパソコン興味の始まりだった。それは、MSーDOSではなく、IBMーDOSだった。長々と書いてきましたが、私の言えない過去に対する「私自身の懺悔」と、それによる「私自身の原点回帰」によって、自分自身の「生き様」に対して【貴様の様をみろ】と自ら連呼し、いろいろな人に言われてきた「ざまあみろ!」をキチンと自分の中で受け止めようと思いました。正直言って、「ざまあみろ!」と呟かれたり吐かれたりしたのは、大変辛く、苦しいものでしたが、全ては自分の行動で「バカをみた」ということですので、仕方がないこと。そんな受け止め方が出来る様になった。もう50半ばの「くそじじい」になった。かっこ悪いがね。まだ、人生捨てたもんじゃない。したたかに、それでいて、しっかりと地を踏んでいきながら、一歩一歩と歩いて行く。「人生のブラックボックスには、何が入っているかな?」。何が何でも卒業、という意思。それは、「精一杯生き抜く。最後まで諦めずに、チャンスを掴んでいく精神。」と良い方向転換の意と捉えて。。。これまでに出逢えた人にすべて感謝。。。失敗を教訓に変えてこそ。。。以上。

2024-09-09 01:11:52

「みなし」は、差別・偏見ではないのか?


最近、「あなたのやり方は正論すぎますよ!そんなの理想ですよ!」と職員に職場で言われた。「真面目に考えることの何が悪い!『理想を掲げた教育を実践できなくて、どうして保育と言えるんだ!』」」」 」と私は心の中で呟いた。「あの子は、我が強くて、手に負えない。何度言ってもいうこと聞かない。きっと、障害的なものを持ってるわ。」とも、その人は言っていた。別の指導員さんも「そうですよねえ。。。」などと同調していた。「ん???」と私は疑問を感じた。「子どもは、でこぼこが当たり前。こちら側が子どもをそのように決めつけてしまうのは差別・偏見だよ」と私は言った。ましてや、こちらは大人で相手は小学低学年。それに、指導員という立場は、そうでない人達から見れば少なくとも「教育のプロ」な立場なはずである。何のために「指導員」 がいて、何のためにお金を頂いて仕事をしているのか、分かっちゃいない! 「保育」にあたる人は、少なくとも「教育分野で仕事している」のであり、絶対に、そんな考えをしてはならぬ立場である。そんな常識ともいえる基本的な考え方が出来ていない人が、指導員になっているという現状がある。そこは、そこでこそ「指導員教育」ではあるのだが。私は次のように言った。『言う事きかない、ということで片付けるのではなくて、「子どものに寄り添う」 ことが一番大事なんだよ。『いう事利かないから、利かせる』というのは、違う。少なくとも私は日頃からそう考えている。何故、子どもがそのような事態になってしまうのか?を指導員自ら自問自答し、常に子ども目線で考えられる姿勢が大事であり、それが保育にあたる人の必須な力なんだよ。そして、そう言った姿勢で接していけば、何故子供がそのような行動・言動をするのかが自然に見えてくるはずだし、ついには「子どもも、心を許し開放」して、自然に、こちらに向かい合うようになるよ。」」』と私は言った。でも、相手からは『確かにね。でも、それは正論ですよ。こっちは、一生懸命に子供に接してますよ。失礼ですよ。』と返される。「そっちこそ、失礼だ!」と私は心の中で呟く。ある指導員は「知ってますか?最近、不登校が問題なってますよねえ。それに、学習障害とか。私それに興味があって、本当はそう言う仕事に就きたかったんですけれど。本筋ではないけれど、仕方なく、この仕事に就いて。。。」と、話した。さっき、同調した人だ。「なんだ、仕方なく、とは。。。この仕事をなめてる!」と私は心の中で呟いた。私はその方に次のように言った。「「学童保育を甘く見られては困る。単に「子どもの遊び相手」やっていれば、それが仕事じゃないですよ。子どものあらゆるトラブルに向き合い、問題改善の為に、どう考えて改善していくか、が大事な仕事なんですよ。言ってみれば、「心身の健康」 を見守る、強いて言えば、「命を預かる仕事」 をしているんですからね。」」と。「学童保育」に限らず、「保育」にあたる人は、「健全な考え方を持っているべきである」と、私は常日頃から考えている。「保育」にあたる人は、少なくとも「「差別・偏見的な見方」をする人は向いていない、と考えている。そして、人に言っているばかりでなく、自らも日々勉強して、謙虚な姿勢でいるように心掛けている。以前居たある指導員さん、支援員でしたが、その人が言っていた言葉をよく想い出します。私の支えになっています。『最近、入ってくる指導員さんって、「志(こころざし)」 がない方が多いですよね。』。この言葉を想い出すと、『いつもハッとさせられる』。「あなたは、どんな志を持って、この仕事をしているのですか???」と。言ってみれば、「初心忘れべからず!」ということで、いつも「原点回帰」に感謝し自己チェックを行う姿勢を忘れずに、「自分の初心は何ぞや???」と。。。

【2024-09-05 03:45:24】

2024-09-09 01:11:08


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